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Teacher's Cafe

経済学部教員が綴る、情報マガジン。このコーナーでは、経済学部教員がリレー形式で、思いつくまま最近気になっているニュースや、お勧めの新刊、旅行記など、受験生や学部生に向けてのメッセージを発信します。

加工貿易立国しかないのでしょうか?−島国日本の生きる道−

2011年2月15日
経済学科 田付茉莉子

皆さんは、小学生のころから日本の経済について資源小国だから加工貿易立国にしか成功の道は見出せないと教えられてきたでしょう。この命題が正しいかどうかを含めて、ここにはたくさんの問題点を発見することができます。私の専門は日本経済史ですので、歴史的な変化を念頭において、考えてみましょう。

島国日本で加工貿易立国をしようとすると、なにがネックになるでしょう。まず加工をするのは製造業ですが、それには原材料や燃料、そして労働力が必要です。原材料や燃料は、日本が経済大国になって円が高くなれば安価に買うことができますし、技術開発によって燃料を節約し、あるいは高価な製品を開発することができます。ところが労働力の代金である賃金は、日本が豊かになると生活費が外国にくらべて高くなり、社会保障費などの企業負担も増えて、コストが上昇します。日本の企業は、すでに1970年代の円高と石油危機以来、この問題に解決の道を探ってきました。その結果、省力化や省エネ化の技術開発は進みましたが、同時に海外への工場進出などによって安価な海外の労働力への依存も進みました。それが今日の日本経済の状況で、企業の国際競争力は強まって業績が好調になっても、日本の国内での生産は伸び悩み、外国人労働者を安い賃金で雇用する事業所も増え、賃金の高い日本人労働者の働く場所が減って、GDPでみた経済成長は停滞しています。

製造業が発展し、その製品の輸出によって高い経済成長を達成するという道は、第二次世界大戦で敗れた日本が、勤勉で教育レベルの高い労働力を豊富に安価に調達できたという条件のもとで成立した経済成長モデルです。技術がより進歩して自動化プロセスが発達した現代では、このような歴史的な条件は消滅します。国際的にみて賃金が割高になるため、企業は国内の労働者を増やさないで、新しい製品を開発したり増産したりすることを選択します。労働者を多く使用しなければならない製造工程は、賃金の安価な場所に移転したり、消費地に近いところに移転して輸送費を節約したりすればいいのです。旧来の工業先進国の国内には、技術開発や発明を含めて新しいビジネスモデルを創造する方向に特化する方法しか残されていません。マイケル・ポーター先生は、このことを “競争優位の原則”と名付けています。産業の立地は、あらゆる企業にとって国際的な選択が可能となり、問題はビジネスモデルの構想力と運用力になるのです。

では、貿易立国についてはどうでしょう。貿易を拡大するためには、商社の機能も国際金融の機能も必要です。極東のなかでも辺鄙な地理的位置と孤立した経済という19世紀後半の日本が置かれた条件のなかで、日本の商社は金融や商品開発や生産の組織化、場合によっては製造業の経営まで、貿易を遂行するうえで必要となるいろいろな機能をみずからの内部にとりこむ方向に発達しました。いわゆる“総合商社”です。過去には“商社冬の時代”などと、総合商社無用論がなんども唱えられました。アメリカでは、限定された商品の取引や特定の事業分野で商社活動をする商社は専門化することで、商社としての機能を高められると考えられていたからです。けれども日本の総合商社が、国際的商取引において柔軟な対応力を蓄えてきた歴史から見れば、そう簡単には商社機能を否定できないのです。今日の商社は、資源開発や炭素排出量取引など将来を見据えた貿易業務から、途上国との人的ネットワークづくりのような伝統的な商業基盤の継承まで、さまざまなノウハウを蓄えて“冬の時代”どころか、成長の時代を維持しています。

一方で国際金融の力は、残念ながら150年の近代化の歴史の中で十分に育ったとはいえません。昭和初期に金融恐慌、昭和恐慌と恐慌が続いて銀行の破たんに苦しんだ経験から、第二次大戦後には銀行をつぶさないことが金融政策の最大の任務と考えられてきました。その結果として、銀行は切磋琢磨されないで高収益をあげることができました。銀行の本当の意味での経営力を育てなかったことで、旧大蔵省の責任は大きいかもしれません。しかも今日では、日本の大企業は国際的な多様な金融機能を、直接に利用して資金を調達しています。また最近では、外国の投資銀行がファンドをまとめて日本企業に出資するというケースも増加しています。企業は、国際会計基準をクリアして、国際金融市場で高い企業価値を認めてもらえれば、有利な資金調達をすることができるのです。

ところで、私は日本経済史のなかでも海運史に関心があります。そこで輸送の問題を考えてみましょう。日本という立地を前提にして製造業を行うためには、原料の輸入と製品の輸出が必要です。100年前までは、機械や鉄鋼の輸入も必要でした。紡績機械、蒸気機関車、鉄道レールといった基礎的資材までが輸入されて、日本の近代産業を支えていたのです。航空産業が発達した今日では信じられないかもしれませんが、当時は海運が輸出入荷物ばかりでなく、人々の移動も担っていました。客船は、観光クルーズではなく、仕事で往来する人々のための定期航路に就航し、それは国際海運の花形でした。

現在、人間の移動はもっぱら航空輸送になって、海運は日常生活から遠ざかっています。それでは、貨物の移動は航空と海運とどちらが主力かご存じですか?重量ベースで95%、価格ベースでも70%が海運です。貨物航空という輸送手段も発達してきましたが、大量貨物については、専用船による輸送のほうが圧倒的に安価です。しかも日本の加工業はほとんどが臨海地域に工場を持っているため、重い原材料を直接工場まで運べるという点でも海運は有利です。たとえば、小麦は穀物の専用船で運ばれてきて、工場の専用ふ頭で自動的に荷揚げされてサイロに収納、隣接する製粉工場にパイプで運ばれて製粉加工され、さらに自動的にタンクローリーに積むか、袋詰めにしてトラックに積みます。そして工場を出て、パン工場や製麺所、小売業の配送センターや店舗に届けられるのです。

日本の代表的な輸出品である自動車の輸送では、自動車専用船という大海を航行する駐車場みたいな船が使われます。その他の輸出品も、電気製品・オーディオ製品・機械類などがコンテナに詰められて、コンテナ船で輸送されます。輸入品でも、ウィスキーのモルトは大きなプラスチックパックに詰めてコンテナに入れ、果物や野菜は氷温コンテナという0℃前後に温度管理されたコンテナに入れて、海老やマグロ、なんと串に刺した焼き鳥でも冷凍コンテナに入れて…なんでも運んでしまいます。

20年くらい前までは、多くの企業が日本国内に製造現場を持ち、原材料・燃料を輸入して製品を輸出していましたから、その国際競争力を維持するうえで、安全で安価でスケジュールを守る日本の海運は、大きな貢献をしてきました。

製造現場がアジアに移ると、海運会社はシンガポールとか上海とかアジアの港からヨーロッパやアメリカの消費地に直接運びます。困るのは“日本パッシング”をされる日本の港であり、労働者であり、国内の輸送業です。国交省は「5大港を国際ハブ港に!」と叫んでいますが、国際物流の流れが変わってしまった今、無理というものです。そのうえ日本の港の経費は、製造業と同じでコストが高いのですから、シンガポールや上海、あるいは釜山など、便利で港費や荷揚料が安くいつでも接岸できる大規模な港で、日本などアジア各地から運んできたコンテナを大型船に積み替えるという選択をしています。こうしたアジアの大規模港は、最新式の荷役機械(ガントリークレーン)を導入していて、導入の遅れている日本の港より荷役時間がずっと短くて済みますので、海運会社にとってはコストの節減になります。日本の海運会社は、合理的な経営に徹して好業績をあげていますので、「世界で最も持続可能な100社(Global 100)」の32位に選ばれた会社もあります。

グローバリゼーションの大きな流れを、いまさら止めることはできません。けれども、グローバリゼーションによって日本の経済発展にとっての環境は、昔とはまったく違ってしまいました。けれども、強い製造業、強い商社、そして強い海運会社などが今の日本経済を支えていることは確かです。そうした産業や企業は、日本の歴史のなかで育ってきたのです。幕末に開港してから150年、途上国から先進工業国へと高度成長を続けてきた日本では、環境の変化にたくましく対応して好業績をあげる企業がたくさんあります。第二次大戦後に成長した大規模な製造業ばかりでなく、明治時代から苦労を重ねて技術を習得し、さらに磨き上げてきた企業、あるいは伝統的技術を現代の最先端の製造業で活かしている企業、環境変化への対応力を鍛えてきた商社、そして設立の当初から国際市場のなかで競争にもまれてきた海運企業など、100年や120年、なかには1000年もの長い歴史を持っています。これほど長寿の企業が多い国は、日本の他にはありません。日本の経済の歴史を学ぶ面白さを、ぜひとも味わってみてください。