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Teacher's Cafe

経済学部教員が綴る、情報マガジン。このコーナーでは、経済学部教員がリレー形式で、思いつくまま最近気になっているニュースや、お勧めの新刊、旅行記など、受験生や学部生に向けてのメッセージを発信します。

貧困概念の格差問題?

2009年9月1日
現代経済デザイン学科 藤村 学

格差問題と貧困問題はしばしば同次元の問題として語られているようですが、皆さんはこの2つの問題をどう捉えているでしょうか。メディアでは両者を意識的に区別している様子はあまりなく、格差の拡大と貧困者の増大が同義であるような扱い方をしている印象です。格差の話が情緒的に圧倒してしまうせいか、その影で貧困の概念について突きつめた議論が少ないように思います。餓死レベルの貧困をほぼ撲滅し、かつては「1億総中流」などと言われた日本ですが、長い不況を経て右肩上がりの経済でなくなってしまったため、誰しも中流から下方へ落ちる確率が高まったことで、格差に対して敏感になっているのかもしれません。歴史や制度の違いによって、どの程度の格差が社会で許容されるかは異なるでしょう。先進国の中でも、北欧諸国のように極端な福祉国家では、おそらく格差の許容度が低いのでしょう。

さて、一般に貧困とは「ある最低基準の生活水準に満たない状態」という絶対概念で、それは「あってはならないもの」として社会の合意が比較的容易な概念だと思います。一方、格差(不平等)は生活水準のバラつきで、資産や所得の絶対的水準とは関係なく、トップとボトムがどれだけ離れているか、という相対概念であり、「あってはならないもの」として社会の合意が困難な概念です。米国のように非常に格差が大きいけれども国全体として非常に豊かな国がある一方、ミャンマーや北朝鮮のように、一部の特権階級を除いて、おそらく庶民は一様に貧しいけれども平等であろうと想像できる国もあります。政策議論としては、貧困と格差を切り離したほうが、効率的な議論ができると思います。ところが、学生の発言を聞いていてもそうですが、なかなかこれが大変そうです。

発展途上国においては、まずは絶対的な貧困を削減することが主な政策課題となるのに対し、国民の平均的な生活水準が快適レベルに達した先進国においては、相対的な貧困としての格差問題が注目を浴びやすいのでしょう。実際、先進国の集まりであるOECD(経済開発協力機構)では貧困指標として、その国の平均所得の半分という相対的指標を使用しています。この基準では、日本の貧困者比率は2000年で15.3%と米国の17.1%に近く、これだと日本も米国に次ぐ貧困大国だということになります。しかし、所得分布の形にもよりますが、平均所得の半分以下の人口は、おそらく1割程度存在するのはむしろ自然ではないでしょうか。しかも、この層を撲滅(ゼロに)することはその定義上不可能です。したがって、「あってはならない」撲滅の対象とするならば、先進国においても何らかの絶対概念としての貧困を定義するのが妥当だと思います。

絶対基準の貧困指標に用いられるのが貧困ラインで、まず最低エネルギー摂取量を得るために必要な食糧支出額として「食糧貧困ライン」を設定し、次に衣・住など非食糧の最低必要支出額を追加して、その国の貧困ラインを推定します。もちろんこれが完全に科学的・客観的な基準というわけではなく、とくに非食糧の最低必要支出額をどう決めるかに、主観の入る余地が大きいですが、上述のOECDの定義よりは納得しやすいと思います。

残念ながら、日本において格差議論は盛んですが、絶対基準に基づく貧困測定は存在しません。「ワーキングプア」にも決まった定義はありません。生活保護世帯の支給額を基準にすることもありますが、この基準も中位世帯の消費水準のほぼ6割というような相対的基準のようです。実際、この生活保護水準を1日・1人あたりに換算してみると、1,700〜3,500円程度になり、各国間の物価差を修正する購買力平価で測ったとしても、国際貧困ラインとして広く引用されている1日1ドル(1985年価格)の10〜20倍はあるでしょう。

もちろん、経済発展の度合いに応じ、その社会で必要最小限と考えられる生活の中身が異なることは仕方ありませんが、それならば、何を必要最小限と考えるか、食・衣・住の消費バスケットを計測可能な形で定義する必要があるでしょう。発展途上国では国内経済が完全に統合されていない場合が多く、日常財の物価の違いで都市部と農村部で別々の貧困ラインを設定することが多いですが、日本なら全国統一の貧困ラインの設定が可能かもしれません。最近は、格差問題を超えて貧困問題を正面から捉えようとする研究も出てきているようなので、「貧困概念の格差」を解消する方向へ議論が進むことを期待したいところです。