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経済学部 学生記者クラブ

被災地にボランティアに行って

私は今年の8月から9月かけて友達と二人で東日本大震災の被災地の宮城県石巻市に三週間ほどボランティアに行ってきた。そこでの活動や、そこで感じたこと、思ったことを紹介したい。

石巻市の被害
石巻市は今回の津波によって広大な範囲が浸水した。市外全域が浸水し、石巻市の浸水地域は全被災地の浸水地域の一割を占めるほどである。もちろん犠牲者の数も多数で、死者、行方不明者合計で5784人にも上るという(5月時点)。この数は全被災地の死者、行方不明者合計の約3割である。これらの数字だけでも石巻市の被害は全被災地でも突出しているといえる。さらに津波による漁港、水産加工施設、農耕地の被害も甚大である。

石巻に着いて
photo059今回私たちは青山学院が組織するボランティア団には参加せず、個人ボランティアとして石巻に行った。最初は石巻市内の専修大学のグラウンドのボランティア専用のテント区域に寝ていた。これは専修大学がボランティアの人たちのために開放していた。ただ途中から市内の黄金浜(こがねはま)という地区の公民館の黄金浜会館に寝泊りすることになった。そこでは黄金浜地区の住民が集まって石巻市市民の会というボランティア団体をつくり自主的に地域の復興に携わっていた。会館も津波でぼろぼろになったものの住民の方々が直したものだった。自分たちは会館に寝泊りしながらその人たちの仕事に参加していた。そこには全国各地からいろいろなボランティアの方々が来ていた。なかには丸一日かけて車で福岡から来た人もいた。会館では毎日避難所に配られていたお弁当の余りが配給されていたので、食事にも特に困らなかった。というのは、私たちが石巻に行ったときには、近所のコンビニやスーパーが再開していたからだ。お風呂は旅館や老人ホームが開放したお風呂、それにNGO団体のピースボートが設営した特設風呂に入った。

ボランティア作業
photo060毎朝9時から作業開始。内容はだいたいいつも同じで、側溝の泥出しである。場所は黄金浜地域で、歩いて行ける距離である。目的地に着いたら、側溝のふたを専用の道具で持ち上げ、中に溜まっている泥を掻き出し土嚢袋にその泥を入れる。その繰り返しである。意外に簡単そうであるが、やっていると結構疲労が溜まってくる。また泥にも種類があり、乾燥した掘りやすい泥や、水を含み重くなったヘドロ、油が混ざったりしたため悪臭を放つ汚泥、さらには木材や衣類、ガラスなどのがれきもあり単純には掘り進めることはできなかった。ほぼ30分ごとに10分ほどの休憩を取り12時にお昼の休憩で会館に戻って昼食をとり、午後1時からまた作業現場に戻り、作業を再開する。そして午後3時に終了となる。そのあと開放されているお風呂に入りに行く。意外に作業時間が短くないかと思うかもしれないが、長期間にわたっての作業なので、体力のことを考えたうえでの作業時間なのだ。

石巻の惨状
photo061石巻市はまともに津波の被害にあったので、津波から5ヶ月たったあとでも、そこかしこにぼろぼろになった家屋や、もとの家の形状が分からない家屋が多く見受けられた。石巻駅周辺の商店街はどこもかしこも泥が残っていた。

会館から歩いて10分のところはもう海岸である。近づくと分かるがとても大きな防波堤があるのである。高さは6〜7メートルほどはある。だが後ろを向くとそこには津波にめちゃくちゃにされた家屋が並んでいた。つまり津波はこの防波堤をたやすく突破し市街地に襲いかかったのである。
そこから海岸沿いに1キロ行くと石巻漁港へと出る。その漁港に行くまでにも冠水した道路やでこぼこの道を多く見る。そして漁港に来た時、最初はいったい何が起きているのか分からなかった。海に面した道を進んでいるにもかかわらずその海のなかに建物や街灯があるのだ。そこで自分の歩いていた道に違和感を覚えた。ここまで来た道はコンクリートだったのに、ここの道は砂利道なのだ。そしてその道路と海を区切っている白い仕切りをよく見ると、それはガードレールだった。そしてその先に水面の下にはなんとここに来るまでの道と同じコンクリートの道があるのだ。つまり今自分がいる場所よりもっと海側までに、もとは道があったのだ。しかし地震による地盤沈下が起き1メートルほど下がってしまったのだ。その影響は道路だけでなく線路にも及んでいる。津波を免れた線路も地盤沈下の影響で海に沈んでしまった。そのため今でも石巻から東方面に出ている石巻線は使えない状態である。そのため、会館の近くの渡波駅舎は、今は交番として使われている。

また街を襲ったのは地震と津波だけではなかった。市内の「門の脇小学校」はその二つに加えて、火事にも見舞われたのだ。学校の表面は黒く焦げ、教室のガラスは砕け散っていた。室内は津波のせいで机やいすなどが散乱し、火事のせいで室内全体が焼け焦げていた。学校の周りの建物も焼けていてその地域は破壊しつくされていた。

ボランティアを終えて
やはり行かなければ分からないものは絶対にある。被災地の状況はテレビで見るよりもひどく感じた。テレビ越しには感じなかったが、現地で破壊された家を見ると当時地震、津波という圧倒的な力を前に逃げるしかなかった人たちの悔しさ、悲しさ、虚しさが少しだが分かった気がした。
また、ボランティアをしている最中に感じたのが行政の限界である。住民の自主的取り組みやボランティアの支援が復興に必要不可欠と思うほどだった。それは3週間石巻にいて黄金浜地区で行政の人間を見なかったことにもある。市役所の人たちは、県庁や中央官庁に行って、被災地の現状を伝えに行っていたのかも知れない。しかし、被災地の人々からみれば、役所や社会福祉協議会は被災者支援の動きが鈍すぎると感じていただろう。例えば側溝の泥だしに関しても、もとは生活用水が流せず衛生上問題があるとして何度も頼んでも市役所が対応しきれなかったとののこと。だから住民側が自主的にやることにしたのだ。
これから石巻を含め被災地は厳しい冬に入る。支援物資の防寒用の衣類や毛布は全国から市役所に届けられる。ここでもまた支援物資の配布の動きは遅いそうだ。行政も未曾有の大災害にベストな対応や支援をすることができないのは分かる。彼ら自身も被災者だということも理解できるが、現在の役所の体制では被災者の切実な要望に答えられないであろう。そのような状態を早急に克服するまでますますボランティアの役割が大事になっている。
現地に行ったからこそ分かることだが、被災地の復興はまだまだ進んでいない。黄金浜を含め被災地は夏休みが終わってからボランティアが急激に減っているようだ。自分も大学に通わなければならないので、歯がゆい気持ちはあった。だからこそ、また今年の冬休みに行こうと思っている。
この記事を読んだみなさんにもぜひボランティアに行ってほしい。特に被災地そのものを見たことがない人々には、是非、現状を知ってもらいたい。少なからず自分のこれからの生き方に影響を与えるかもしれない。「百聞は一見にしかず」である。

(文・写真: Ryo O.)